フェンダー・ジャパン前史③

 神田商会が主導したフェンダー・ジャパン。アメリカのフェンダーはなぜ日本をもひとつのフェンダーの創業の地に選んだのか。なぜ1981年だったのか。

 よく知られた話として、日本製コピー楽器が市場に侵食してきて、フェンダーやギブソンの楽器が売れなくなった、という背景がある。実際に両社とも訴訟を起こしているし、後年の東海楽器製造株式会社(トーカイ)のように、フェンダーに敗訴して楽器の販売停止の憂き目に遭い、1984年に会社更生法を適用する事態にまで陥っている(その後もフェンダーコピーを製造してはいるのだが)。

 そこまでいかなくても、神田商会にはフェンダーから自社がもつパテントの侵害についてのクレームがたびたび来ていたようだ。テレキャスターもストラトキャスターも、開発当時は革新的な構造をもつギターだった。その分、レオ・フェンダーはそうした機構にしっかりパテントを取り、権利を保護している。テレキャスターのブリッジプレートからも、ストラトキャスターのヘッドストックのデカールからも見て取れる。グレコに関わらず、各社がどこをどう変更して、そのクレームから逃れていたのか。きっと愉快な話がきけるだろう。

 1970年代の「日本のコピー楽器の出来が良すぎた」という美談も、本当のことなのだろうが、そればかりではない気がしている。たびたび書いているように、子細に見れば(いや、ものによってはパッと見でも)1977、8年までのコピーモデルはどこか変だ。似ているけど、すべてが違うというのか。クレーム逃れの意味もあったのだろうか……。

 そして、先に書いた様にコピーの主流(特にフェンダー系)は、現行製品だった。ストラトキャスターであれば、ラージヘッドにバレットナット、3点どめという70年代スタイルのコピーを各社一様に出していた。トーカイのSilver Star、フェルナンデス/バーニーのBurny Custom、ヤマハのSuper R’nroller、グヤトーンのLS、グレコのSE。現行品のコピーに加えてスモールヘッドのストラトキャスタータイプを作っているブランドもあったが、そうした70年代中期の楽器は、ヴィンテージのクローンと言えるフェンダー・ジャパンのJVとは当然雲泥の差がある。

 ストラトキャスターで言えば、先に書いた「サーフボードギター」としての軽やかさを出せていたメーカーは皆無だ。塗装や材質もみな家具のような重厚さであり、フェンダーの楽器の持つアメリカ的な「ポップさ」や「キッチュさ」は残念ながらそうした楽器の中には見当たらない。

 そのなかで、グレコは1976年のプロジェクトシリーズを皮切りに、フェンダー系ヴィンテージ・コピーのステージを押し上げる。

 そして、市場での試行錯誤を重ねた末の1980年。分水嶺となる年だ。Super Realシリーズが登場する。

 

 

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フェンダー・ジャパン前史②

 フェンダー・ジャパン株式会社は、フェンダー(米国CBSミュージック・インストゥルメンツ)と、神田商会、山野楽器(フェンダーUSAの輸入元)が出資して1982年5月に設立された会社だった。住所は神田商会と同じなので、イニシアチブがどこにあったのかが自ずとわかる。出資比率上も、神田商会が55%、CBSが35%、山野が10%であった。

 とはいえ、フェンダーが声をかけたのは富士弦楽器製造(フジゲン)だった。そして、フェンダー・ジャパンの初代社長にはフジゲンの小嶋取締役が就任している。

 余談だが、私は勝手な想像で、まずは販売元である神田商会にフェンダーは話を持ちかけたと思っていた。だが、実際はフジゲンに直接アプローチしていたわけで、確かに中抜きされない分、合理的な判断ではある。

 さて、フェンダーがフェンダー・ジャパン設立の打診を行なったのは、設立の前年の1981年。実際の準備期間がいかほどであったかはわからないが、1年に満たないはずで、おそらく準備は急ピッチで進められたのだろう。その中で、スタッフの選定含めて、様々な準備が必要だったと思われる。

 フジゲンは当時から神田商会と組んでグレコの製造していた。紆余曲折あったようだが、結果的にこの神田商会=グレコの組み合わせだったからこそ、恐ろしく短期間のうちに会社設立〜JVシリアルが付される楽器の準備ができたのだ。

 なにせ、フェンダー・ジャパンの商品は「もともとあった」のだから。

 「もともとあった」話の前に、また少し時計の針を戻して、1970年代の状況を見てみよう。神田商会がグレコとして、のちにジャパン・ヴィンテージと称される様になる「コピー楽器」の販売を開始したのは、カタログ上は1970年ころになる。

 1970年前後に輸入されていたフェンダーやギブソンは、当時の価格で30万円前後。当然、日本製もメキシコ製も韓国製もない時代だから、本家のそのものを買うしかない。

 実際、プロミュージシャンたちは、輸入されていたフェンダーもギブソンも使っていたわけで、日本にいて買えないわけではない。それでもやはり、1970年の大卒初任給の平均が5万円を切る時代のこと。多くの若者が銀座4丁目の山野楽器や渋谷道玄坂のヤマハに行っては、プライスタグを見てため息をついていたはずだ。

 それなら、ポップミュージックのいちばんの消費者である若者が買える値段でそっくりな楽器を作れば商売になるじゃないか、と考えるのは道理である。デザイン上のコピーライトの感覚や権利ビジネスに対する問題意識も低かった(おおらかだった)のだろう。4、5万円でストラトキャスターっぽい、テレキャスターっぽい楽器が買えるのであれば、若者たちにとって、そんな嬉しいことはない。

 そうやって、ジャパン・ヴィンテージより前に、のちに「ビザール」として珍重されていく日本独自デザインのギター/ベースは姿を消し、より「本物らしい」楽器が作られていくようになったのだ。

 コピーモデルの登場からわずか10年。「なんとなく似ている」楽器は、「完全に似ている楽器」として本家からお墨付きをもらい、日本でライセンス生産されるフェンダー楽器として、その地位を確立していく。後世から見てみれば、そのトップスピードが1982年に照準を合わせられていたのだった。

 1982年からすでに、40年弱。当時のフェンダー・ジャパン経営陣のほとんどが、すでに不帰の人となっている。だが、もう少しだけ資料を頼りに、フェンダー・ジャパン設立までの道をたどってみたい。

 

 

 

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フェンダー・ジャパン前史①

 まずは1982年以前の日本および米英の音楽と楽器とを取り巻く状況を俯瞰しつつ、フェンダー・ジャパン前史を追っていこうと思う。のっけから道草のような流れだが、重要なポイントが含まれているので、かいつまんで説明しておきたい。

 本家フェンダーの楽器群が全世界で注目されるきっかけは、もちろんロックカルチャーの台頭だった。もはや音楽史の定説だが、ロック(日本風に言うとニューロック)のおかげで、フェンダーもギブソンも、新しい命が楽器に吹き込まれることになる。

 サーフボードギターと揶揄されたストラトキャスターは、一転、時代のサウンドを生み出す根源になった(サーフボードギターという蔑称は、嫌いではない。コンターのカーブの滑らかさにフェテイッュを覚えるたちだからもしれないが、ストラトのある種の軽やかさを言い当てている)。

 不人気から生産が打ち切られていたギブソンのレスポールが68年に復活したのもロック・ギターとして不動の地位を確立したからだ。つまり、楽器の生き死にというのは、音楽による影響力が大きいということだろう。

 そういう意味で言うと、日本の楽器業界がフェンダーやギブソンのコピー製品を作り、「コピー楽器戦争」と呼ばれるほどの活況を呈していた70年代半ばからの音楽はどうだったろう。

 1975年からのビルボード年間トップ40を見ていくと、ソウルやダンスミュージックに根差した、華やかでスムースな音楽が次第に好まれていく傾向が見てとれる(ロックはサブカルチャーなので、最大公約数的な性格が強いトップ40に、60年代だからといってジミ・ヘンドリックスやクリームが入るわけではないのだが、その分、大きな流れをつかむことができる)。

 70年代半ば、真空管の時代の終わりともあいまって、録音現場に昔ながらのノイズが入り込まなくなっている時期とも重なる。トランジスター増幅のミキシングコンソールによって録音されるクリアーで歪み感の少ないサウンドが生み出されると、しだいに楽器にもその性格が要求されるのは自然な流れだ。

 フェンダーもその例にもれない。70年代のストラトキャスターやテレキャスターは、音の印象で言えば硬質でエッジィ。ファンキーなカッティングや輪郭がはっきりしたバッキングに向いているイメージだ。50年代、60年代のようなリッチな中低域よりも、低域から高域まではっきりした、硬いアッシュ材のドンシャリ感のあるサウンド。つまり、その時代にあった音を、ストラトキャスターであれテレキャスターであれ、供給するようにしていたわけだ。

 そして、重要なポイントというのは、日本ブランドのコピー楽器群もこの時点では、「同時代の新製品」のコピーを作っていたということだ。コピー楽器だけではなく、オリジナル楽器は、もっと色濃く同時代に寄り添っていた。この時点では「最新のものが最良」という考えが優勢であり、ヴィンテージという価値観は形作られていない。そして、当時の現行品に対しての良し悪しの判断は、ひとまず保留されていたはずだ。ストラトキャスターであれば重いアッシュボディに起因するあの音こそ新品の「フェンダーの音」だったのだから。

 70年代グレコのSEやEGシリーズなどは「ヴィンテージだから」というよりは、「海外ミュージシャンが使っていたギターに似せるように」作っていたはずだ。その範疇で「なんとなく似ている」から「かなり似ている」への精度の進化はあっただろう。しかし、姿形だけでなく「座繰りまでまったく同じ」にするまで突き詰めるような、ある意味で、「JVの思想」とでも呼ぶべき物作りはされていない。

 ここで疑問が湧く。「かなり似ている」から「まったく同じ」へと、わずか数年で飛躍することになるその萌芽はいつ、何がきっかけで芽生えたのだろうか。

 そこは、のちにフェンダー・ジャパン株式会社を形成する主要メーカー、神田商会=グレコの進化の中に答えが見つけられるかもしれない。

 

 

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フェンダー・ジャパンをめぐる旅へ

 1982、JV。

 ギター/ベースフリークであれば、この数字とアルファベットの意味するところは、すぐにおわかりになるだろう。--1982年製フェンダー・ジャパンの楽器に付されたJVシリアル。

 JV、すなわちジャパン・ヴィンテージ。

 フェンダー・ジャパンは、1982年に生まれたときから、すでにヴィンテージを標榜しており、本家フェンダーUSA黄金時代のギターとベースを復活させることにその意図があった。
 最初の製品群として、JVシリアルが与えられた楽器の音色、木材の質とその加工精度、ヴィンテージクローンとしてのトータルな佇まいは、すでに完成の域にあった。……というよりも、JVは誕生のその瞬間が頂点であり、とくに「115」は他の追随を許さない圧倒的なアウラをまとっていた。
 それを持ってして、フェンダー・ジャパンは世界に名を馳せた。

 2020年現在において「本当の」ヴィンテージ楽器となったJVの実力は、全世界の中古楽器相場でのプライスタグを見ても一目瞭然だろう。豊穣とされる80年代日本製ギター、ベースのなかにおいても、突出した存在であることは疑いようがないはずだ。

 フェンダー・ジャパンは設立当初から本家をもある部分で内包しながら、30余年にわたって世界中の初学者からプロフェッショナルまで、あまたミュージシャンとともに歩んできた。

 だが2015年、われわれの知るフェンダージャパンは消滅した(しかし、そういう意味ではすでに1997年に一度なくなっているのだが)。これから見ていく様に、特殊な事情のなかで誕生したはずのフェンダー・ジャパンは、なぜ世界を席巻することになったのか。

 本稿では、資料をもとにして歴史を縦横に編み込みつつ、元フェンダージャパン関係者の証言を取り入れ、さらに私見も交えながら論をドライヴさせるつもりだ。資料と証言の齟齬は、30年の時間経過を考えれば当然起こりうる。資料が間違っていることもあるだろうし、証言者の記憶があいまいなこともあるだろう。なるべく丹念に糸をほぐしながら、かつ横道にも逸れながら、フェンダージャパンとJVの物語を書き進めていきたい。

 1982年から1984年の間に作られたJVシリアルを持つギターとベース。とりわけ1982年製の「伝説」は正当な評価なのか、あるいは過大評価なのか……。フェンダー・ジャパンとJV誕生のインサイドストーリーをめぐる旅を始めよう。

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