本家フェンダーの事情②

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 テレキャスターであれば1952年、ストラトキャスターであれば1957年、1962年。

 1982年にフェンダー・ジャパンとして復活した年式のラインナップである。1962年からであれば20年。長いといえば長い年月であるが、現代の感覚からすると、当時の音楽を取り巻く変化のスピード感に驚かされる。62年と言えばビートルズがレコードデビューした年で括ってしまってかまわないだろう。だが、82年にデビューしたバンドといえば……あまりに多彩で代表的な名前は思い浮かばない。

 その変化の幅ゆえに、20年前、25年前を豊穣の年として「ヴィンテージ」を振り返る機運が高まったのかもしれない。既に固定化されたテクノロジーの上で推移していった、2000年代の20年分の音楽や楽器産業に比べれば、変化の幅やインパクトはさらに大きく感じられる。

 さて、1981年。フェンダー首脳陣が白羽の矢を立てたのが、富士弦楽器製造であったことは先に触れた。ほかにマツモクなども候補があったようだが(実際にアプローチがあったのかは不明)、実際にはフェンダーが納得できるレベルの楽器で、最速で会社を設立するためには、フジゲンにあたるしかなかったのだろう。

 そう、フェンダー・ジャパンの楽器群はSuper Realシリーズという形で「すでにあった」のだ。しかし、フジゲンは、いったんこの話を蹴っているという。そこで神田商会が間に入って、フェンダー・ジャパン設立の話をまとめたという事情があった。

 もしも神田商会が仲介に動かなかったらどうなったのだろうか。どれだけフジゲンがSuper Realシリーズの出来に自信を持っていようと、コピーであることには変わりはない。先に書いたトーカイと同じことが、それよりも先にフジゲン〜神田商会に起こったであろうことは、容易に想像ができる。

 この仲介があったからこそ、神田商会が筆頭株主としてイニシアチブを握ったのではないだろうか(あるいは、フジゲンには一度話を断ったことを含めて、『下請け』としての矜恃があったのかもしれない)。

 こうした事情がすべて出揃ったのが、1981年だったというわけだ。

 とにかく、フェンダーがフジゲンを高く評価していたことは、その後の流れを見るとよくわかる。件のダン・スミスがフジゲンを訪れ、フェンダーのフューラトン工場への技術的なバックアップを要請している。この事実からも、本家フェンダーのクオリティに問題があったことの裏付けになるはずだ。

 フェンダー・ジャパンの設立が日本で発表されたのが、1982年3月11日。楽器はその5月から供給が始まった。81年のシュルツの社長就任から考えると、繰り返すが、最速での設立だろう。

 製作のフジゲンとは別に、神田商会は急速にフェンダー・ジャパンを会社体制として整えようとしていた。ローランド経由でヘッドハンティングされてチームに加わった人物もいる。そもそも当時の日本に、本物のフェンダーに詳しい楽器のプロフェッショナルも限られていたはずで、業界内での「必要な人物」の目星はついていたのではないだろうか。

 アメリカに駐在して、日米のパイプ役を務める人物も必要とされた。こうして人と物の交流を経て、フェンダー・ジャパンの最初のラインナップが決められた。Super Realは50年代型も60年代型もあったので、そこに年式ごとの細かい調整を施していくことで、フェンダー・ジャパンの楽器として仕立て上げられたのだろう。Super RealシリーズとJVシリーズとの微妙な差異にも説明がつく。

 こうして初年度に、テレキャスターが95、65、ストラトキャスターが115、85、65の価格帯で発売された。世界で初めて、6万5千円で買えるフェンダーの主軸モデルの廉価版が誕生したのだ。

 しかし、この変革はフェンダー・ジャパンだけでなく、本国フェンダーの動きも同時に知ることで全体像が見えてくる。「本歌取り」としてのフェンダー・ジャパンの姿については、次回に考察してみよう。

 

 

 

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