1982年のストラトキャスター①

 本国フェンダーにとって1981年は、様々な意味で重要な年となった。内部の変革のために、正統的なストラトキャスターの歴史に幕が下されたことは、大きな出来事だろう。ビンテージ市場でも、ストラトキャスターは1981年までを区切りとしている(その点テレキャスターは、年代による程度の差こそあれ、一貫してテレキャスターであった)。

 翌1982年に生まれたフェンダー系列のストラトキャスターには、3つの流れがある。

 ひとつは、フェンダー・ジャパン。

 もうひとつは、ラージヘッド&3点止めをスモールヘッド&4点止めへと仕様変更した、ダン・スミスが監修した通称スミス・ストラトと呼ばれる過渡期モデル。The Stratの流れからアメリカン・スタンダードへと繋がる「現行」ラインの始祖である。

 そして、本家フェンダーのヴィンテージ・リイシューであるAmerican Vintage Seriesがある。

 ここで仔細に見ていきたいのは、フェンダー・ジャパンとAmerican Vintage Seriesである。同じようにヴィンテージリイシューを標榜していて、スペック的にも共通点(共有点、と呼んだ方がよいか)が多い両者。しかし、そこには「JVの思想」の有無と、日本人とアメリカ人との考え方に決定的な差異が見てとれるのだ。

 フェンダー・ジャパンの年式を決めるときに求められたのが、アメリカ側のラインナップに揃えることだったという。つまり、American Vintage Seriesの構想が先にあり、それにならうようにジャパンが企図されたわけだ。おそらく、日本のコピー楽器が「黄金時代の楽器」に似ていれば似ているほど、世界で評価され求められたことに倣い、ギブソンを横目でみながら、本家でもやらざるを得ないと判断したのだろう。

 あるいはフェンダー・ジャパンを作る上で、その「上位」モデルの「本物」のフェンダーUSAが君臨している必要があったのかもしれない。価格的にもAmerican Vintage Seriesは27万円程度であったので、ジャパン最上位の115(11万5千円)と比べても2倍以上の開きがあり、充分な価格差を誇示できた。

 フェンダーにしろギブソンにしろ、「古き良きアメリカ製品(Made in USA)」を最良とする日本人の感性が、アメリカ人に自国の骨董品の再発見を促したと言えるのだが、このストーリーは、のちに起こる現象と相似形をなしている。それがアメカジ・ファッションであり、なかでも「ジーンズ」のレプリカ合戦と同じ様相を呈していることに気づかれるだろう。

 日本人は、憧れの存在であったリーバイスの赤耳ヴィンテージ品を全米で「捨て値」で買い集め、アメリカ人以上に研究し尽くし、そのパーフェクトコピーを作ろうと奮闘した。コットンの風合いや藍の染め方を再現し、古い力織機を買入れて布のうねりまで同様に織り上げ、大量生産品と化したリーバイスが捨て去った「本物のジーンズ」の味わいを再び蘇らせた。

 やはり200ドル程度でヴィンテージのストラトキャスターやテレキャスターを買い集め、採寸し、座繰りまで似せて、できる限り忠実なコピー楽器を作った歴史となんと似ていることだろう。日本人はこうした営為に向いている、というか、「再生」に異常な情熱を捧げる民族性なのだとしか思えない。それは知識欲と達成感を満たす、ある種の快感伴う行為だったのだろう。

 日本人が重箱の隅を突きまくることによって、アメリカ人もその価値に気づいていったわけだが、いまも昔も当のアメリカ人は完璧なリアルさを求めているようには思えない。どちらかといえば、合理的な妥協、とでも言える姿勢が見えてくる。

 その感性の差が如実に出ていたのが、JVとAmerican Vintage Seriesの方向性の違いであった。

 

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本家フェンダーの事情②

 テレキャスターであれば1952年、ストラトキャスターであれば1957年、1962年。

 1982年にフェンダー・ジャパンとして復活した年式のラインナップである。1962年からであれば20年。長いといえば長い年月であるが、現代の感覚からすると、当時の音楽を取り巻く変化のスピード感に驚かされる。62年と言えばビートルズがレコードデビューした年で括ってしまってかまわないだろう。だが、82年にデビューしたバンドといえば……あまりに多彩で代表的な名前は思い浮かばない。

 その変化の幅ゆえに、20年前、25年前を豊穣の年として「ヴィンテージ」を振り返る機運が高まったのかもしれない。既に固定化されたテクノロジーの上で推移していった、2000年代の20年分の音楽や楽器産業に比べれば、変化の幅やインパクトはさらに大きく感じられる。

 さて、1981年。フェンダー首脳陣が白羽の矢を立てたのが、富士弦楽器製造であったことは先に触れた。ほかにマツモクなども候補があったようだが(実際にアプローチがあったのかは不明)、実際にはフェンダーが納得できるレベルの楽器で、最速で会社を設立するためには、フジゲンにあたるしかなかったのだろう。

 そう、フェンダー・ジャパンの楽器群はSuper Realシリーズという形で「すでにあった」のだ。しかし、フジゲンは、いったんこの話を蹴っているという。そこで神田商会が間に入って、フェンダー・ジャパン設立の話をまとめたという事情があった。

 もしも神田商会が仲介に動かなかったらどうなったのだろうか。どれだけフジゲンがSuper Realシリーズの出来に自信を持っていようと、コピーであることには変わりはない。先に書いたトーカイと同じことが、それよりも先にフジゲン〜神田商会に起こったであろうことは、容易に想像ができる。

 この仲介があったからこそ、神田商会が筆頭株主としてイニシアチブを握ったのではないだろうか(あるいは、フジゲンには一度話を断ったことを含めて、『下請け』としての矜恃があったのかもしれない)。

 こうした事情がすべて出揃ったのが、1981年だったというわけだ。

 とにかく、フェンダーがフジゲンを高く評価していたことは、その後の流れを見るとよくわかる。件のダン・スミスがフジゲンを訪れ、フェンダーのフューラトン工場への技術的なバックアップを要請している。この事実からも、本家フェンダーのクオリティに問題があったことの裏付けになるはずだ。

 フェンダー・ジャパンの設立が日本で発表されたのが、1982年3月11日。楽器はその5月から供給が始まった。81年のシュルツの社長就任から考えると、繰り返すが、最速での設立だろう。

 製作のフジゲンとは別に、神田商会は急速にフェンダー・ジャパンを会社体制として整えようとしていた。ローランド経由でヘッドハンティングされてチームに加わった人物もいる。そもそも当時の日本に、本物のフェンダーに詳しい楽器のプロフェッショナルも限られていたはずで、業界内での「必要な人物」の目星はついていたのではないだろうか。

 アメリカに駐在して、日米のパイプ役を務める人物も必要とされた。こうして人と物の交流を経て、フェンダー・ジャパンの最初のラインナップが決められた。Super Realは50年代型も60年代型もあったので、そこに年式ごとの細かい調整を施していくことで、フェンダー・ジャパンの楽器として仕立て上げられたのだろう。Super RealシリーズとJVシリーズとの微妙な差異にも説明がつく。

 こうして初年度に、テレキャスターが95、65、ストラトキャスターが115、85、65の価格帯で発売された。世界で初めて、6万5千円で買えるフェンダーの主軸モデルの廉価版が誕生したのだ。

 しかし、この変革はフェンダー・ジャパンだけでなく、本国フェンダーの動きも同時に知ることで全体像が見えてくる。「本歌取り」としてのフェンダー・ジャパンの姿については、次回に考察してみよう。

 

 

 

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本家フェンダーの事情①

 フェンダーという会社は、1965年になくなっている。

 創業者レオ・フェンダーの病状の悪化もあり、CBSに会社を売却。同社のいち楽器ブランドとしての歩みが始まる。売却後、コンサルタントとしてフェンダーに関わり続けていたレオは1970年にCBSを離れて、72年にミュージックマンを設立。ストラトキャスターの3点留めネックなどの置き土産(良し悪しは置くとして)はあったが、フェンダー製楽器としての正統進化は、レオが離れた時点で止まっていると言えるだろう。

 その後、フェンダーという圧倒的なブランド力を頼みに、ポピュラーミュージックの変遷とともに様々な音楽を生み出してきたのはご存知の通り。好き嫌いは分かれるが、70年代半ばまでのフェンダー楽器群には、明確なキャラクターがあり、ヴィンテージ市場の一角を占めるだけの評価を得ている。

 それが綻び出したのが、1970年代後半。76年ころからボディをアッシュ材に統一したあたりのことだろう。CBSとしてどういう判断で70年代の楽器を作っていたのかはわからないが、楽器としてのクォリティ低下が起こったことは事実だ。ヴィンテージ市場価格も正直であり、77〜79年のストラトキャスターであれば現在でも20万円台で買うことができる。加えて、ドル高による輸出の低迷、米国内での楽器需要の減少といった要素もあった。

 つまり、コピー楽器の質が高かったとことは原因の一つではあったが、それよりも本家の事情により安価なコピー楽器に「負ける」という事態が起こった、と見た方がよいだろう。レオ・フェンダーがCBSを去ってから10年弱。ゆったりとした変質の中にあったフェンダーは、ウサギと亀よろしく、コピー楽器を出していたグレコほか日本のメーカーの不断の努力の前に、考え方を改めざるをえなかったのだ。

 そうした状況をCBS社内でも静観していたわけではなく、1981年に元ヤマハのビル・シュルツを社長に、ダン・スミスをマーケティングの責任者に招聘して立て直しを図る。

 また、フェンダーよりも先にヴィンテージ回帰の流れを打ち出したのがギブソンだ。もちろん念頭にはトーカイのLSシリーズやグレコのプロジェクト〜スーパーリアル・シリーズの存在があったことだろう。ギブソンもまた時代の流れの中でレスポールを変化させながらも、黄金時代のレガシーを乗り越えることができずにいたわけだ。

 フェンダーとしても、1980年にThe Stratを発表するなど、レガシーを省みるギターを発表しているが不発に終わっている(1983年まで作られてはいたが)。一度起こってしまったダウントレンドに抗うことは難しい。シュルツとロジャー・パーマー(ヴァイス・プレジデント)は、アメリカ生産の新しい主軸となる楽器の展開を考えつつも、コピー楽器の封じ込めとして、自陣に廉価でフェンダーブランドを展開する体制を構築することを検討していく。

 毒をくわらば皿まで。そこまで完璧にコピーできているのなら、日本製の楽器にフェンダーのお墨付きを与えて転用すればいいだろう……。そんな徹底した合理主義のもとで、生産拠点を日本にしたフェンダー・ブランドの計画が持ち上がったのだった。

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フェンダー・ジャパン前史④

 1980年のSuper Realシリーズこそ、コピーからクローンへの転換点と言えるだろう。数年間の研鑽のたまものである。

 明確に年代を設定して、細部までコピーしていく。1980年のカタログではSE・TE800以上がSuper Real、それ以下が前年を引き継ぎSuper Power、Spacey Soundとなっている(TEはSpacey Soundのみ)。

 特に、翌1981年のカタログではこれまで以上に「いかにヴィンテージモデルを検証し、それを当時の技術で蘇らせたのか」の説明にページが割かれているが特徴だ。「リアルの超越」という製品名は、「ジャパン・ヴィンテージ」と銘打った、その思想と同一だろう。フジゲンビルダーの意地、誇りを感じる。

 この80年と81年の差は、中でもストラトキャスターのコピーモデル市場において決定的に大きい。その意味は80年製のトーカイSTとSuper Realを比べるとよくわかるはずだ。

 コピー楽器群のなかで、ずば抜けた存在感を放っていたのがグレコとトーカイであることは間違いない。トーカイは、レスポールにおいては驚異的な執念を見せ、レギュラー製品ではLS120を頂点としたバーストクローンの生産を行っていた。フォークロックトリオ「ガロ」のメンバーTommyのバーストを採寸して、1978年からその完璧なコピーとしてLSシリーズを作っていったことで知られる。

 トーカイはSTシリーズ(Springy Sound)やTEシリーズ(Breezy Sound)でもヴィンテージの再現を行なっていた。だが、コピーとしての完成度は、1980年までは、もう一歩足りない部分があった(60年代モデルのネックにスカンクストライプがある、など)。LSで見せた情熱とは温度差がある。

 それが、1981年のモデルでは足りない一歩を補い、リアルなヴィンテージコピーを出してきた。サウンドにおいても、リッチな中域が特徴的なヴィンテージトーン。グレコSuper Realの完成度に奮起された部分があることは想像に難くない。これはまた別の物語があるわけだが、82年のフェンダー・ジャパンの誕生と、先にも触れた敗訴によるトーカイの苦境により失われたものもまた、小さくなかったはずだ。

 私は1982年のトーカイST50(スパロゴ)を使っているが、存外悪くない、というより気に入っている。ネックの感触もよく、なにより3.4kgという軽い個体であることからも、手放さないでいる。

 またまた余談めくが、そもそも、日本人の(職人的な)物作りにおいて「形(かた)」を極めることは、ひとつの理想と言えるものだ。カタチを変化させてまで道具としての効率性を追い求める、という姿勢がそこにはあまり見られない(私はよく日本刀を例に話すのだが)。美と機能性がバランスした「形」を見出すと、その一つの形態を突き詰めようと努力する。その感性に、ヴィンテージコピーの極北を目指す、という目標がフィットしたのだろう。

 そして、Super Realの完成度に刺激をうけたのがトーカイだけでなく、本家のフェンダーであったというわけだ。その1980年はフェンダー(CBSミュージカルインストゥルメンツ)においても、大きな分水嶺であった。

 のちに振り返ると、歴史には様々な結節点(ハブ)や特異点(飛躍)が出現することがある。エレキギター/ベースの歴史においては、間違いなくこの1980年はその「点」であり、後世に影響を及ぼすことになった。

 

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