フェンダー・ジャパン株式会社は、フェンダー(米国CBSミュージック・インストゥルメンツ)と、神田商会、山野楽器(フェンダーUSAの輸入元)が出資して1982年5月に設立された会社だった。住所は神田商会と同じなので、イニシアチブがどこにあったのかが自ずとわかる。出資比率上も、神田商会が55%、CBSが35%、山野が10%であった。
とはいえ、フェンダーが声をかけたのは富士弦楽器製造(フジゲン)だった。そして、フェンダー・ジャパンの初代社長にはフジゲンの小嶋取締役が就任している。
余談だが、私は勝手な想像で、まずは販売元である神田商会にフェンダーは話を持ちかけたと思っていた。だが、実際はフジゲンに直接アプローチしていたわけで、確かに中抜きされない分、合理的な判断ではある。
さて、フェンダーがフェンダー・ジャパン設立の打診を行なったのは、設立の前年の1981年。実際の準備期間がいかほどであったかはわからないが、1年に満たないはずで、おそらく準備は急ピッチで進められたのだろう。その中で、スタッフの選定含めて、様々な準備が必要だったと思われる。
フジゲンは当時から神田商会と組んでグレコの製造していた。紆余曲折あったようだが、結果的にこの神田商会=グレコの組み合わせだったからこそ、恐ろしく短期間のうちに会社設立〜JVシリアルが付される楽器の準備ができたのだ。
なにせ、フェンダー・ジャパンの商品は「もともとあった」のだから。
「もともとあった」話の前に、また少し時計の針を戻して、1970年代の状況を見てみよう。神田商会がグレコとして、のちにジャパン・ヴィンテージと称される様になる「コピー楽器」の販売を開始したのは、カタログ上は1970年ころになる。
1970年前後に輸入されていたフェンダーやギブソンは、当時の価格で30万円前後。当然、日本製もメキシコ製も韓国製もない時代だから、本家のそのものを買うしかない。
実際、プロミュージシャンたちは、輸入されていたフェンダーもギブソンも使っていたわけで、日本にいて買えないわけではない。それでもやはり、1970年の大卒初任給の平均が5万円を切る時代のこと。多くの若者が銀座4丁目の山野楽器や渋谷道玄坂のヤマハに行っては、プライスタグを見てため息をついていたはずだ。
それなら、ポップミュージックのいちばんの消費者である若者が買える値段でそっくりな楽器を作れば商売になるじゃないか、と考えるのは道理である。デザイン上のコピーライトの感覚や権利ビジネスに対する問題意識も低かった(おおらかだった)のだろう。4、5万円でストラトキャスターっぽい、テレキャスターっぽい楽器が買えるのであれば、若者たちにとって、そんな嬉しいことはない。
そうやって、ジャパン・ヴィンテージより前に、のちに「ビザール」として珍重されていく日本独自デザインのギター/ベースは姿を消し、より「本物らしい」楽器が作られていくようになったのだ。
コピーモデルの登場からわずか10年。「なんとなく似ている」楽器は、「完全に似ている楽器」として本家からお墨付きをもらい、日本でライセンス生産されるフェンダー楽器として、その地位を確立していく。後世から見てみれば、そのトップスピードが1982年に照準を合わせられていたのだった。
1982年からすでに、40年弱。当時のフェンダー・ジャパン経営陣のほとんどが、すでに不帰の人となっている。だが、もう少しだけ資料を頼りに、フェンダー・ジャパン設立までの道をたどってみたい。