本家フェンダーの事情①

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 フェンダーという会社は、1965年になくなっている。

 創業者レオ・フェンダーの病状の悪化もあり、CBSに会社を売却。同社のいち楽器ブランドとしての歩みが始まる。売却後、コンサルタントとしてフェンダーに関わり続けていたレオは1970年にCBSを離れて、72年にミュージックマンを設立。ストラトキャスターの3点留めネックなどの置き土産(良し悪しは置くとして)はあったが、フェンダー製楽器としての正統進化は、レオが離れた時点で止まっていると言えるだろう。

 その後、フェンダーという圧倒的なブランド力を頼みに、ポピュラーミュージックの変遷とともに様々な音楽を生み出してきたのはご存知の通り。好き嫌いは分かれるが、70年代半ばまでのフェンダー楽器群には、明確なキャラクターがあり、ヴィンテージ市場の一角を占めるだけの評価を得ている。

 それが綻び出したのが、1970年代後半。76年ころからボディをアッシュ材に統一したあたりのことだろう。CBSとしてどういう判断で70年代の楽器を作っていたのかはわからないが、楽器としてのクォリティ低下が起こったことは事実だ。ヴィンテージ市場価格も正直であり、77〜79年のストラトキャスターであれば現在でも20万円台で買うことができる。加えて、ドル高による輸出の低迷、米国内での楽器需要の減少といった要素もあった。

 つまり、コピー楽器の質が高かったとことは原因の一つではあったが、それよりも本家の事情により安価なコピー楽器に「負ける」という事態が起こった、と見た方がよいだろう。レオ・フェンダーがCBSを去ってから10年弱。ゆったりとした変質の中にあったフェンダーは、ウサギと亀よろしく、コピー楽器を出していたグレコほか日本のメーカーの不断の努力の前に、考え方を改めざるをえなかったのだ。

 そうした状況をCBS社内でも静観していたわけではなく、1981年に元ヤマハのビル・シュルツを社長に、ダン・スミスをマーケティングの責任者に招聘して立て直しを図る。

 また、フェンダーよりも先にヴィンテージ回帰の流れを打ち出したのがギブソンだ。もちろん念頭にはトーカイのLSシリーズやグレコのプロジェクト〜スーパーリアル・シリーズの存在があったことだろう。ギブソンもまた時代の流れの中でレスポールを変化させながらも、黄金時代のレガシーを乗り越えることができずにいたわけだ。

 フェンダーとしても、1980年にThe Stratを発表するなど、レガシーを省みるギターを発表しているが不発に終わっている(1983年まで作られてはいたが)。一度起こってしまったダウントレンドに抗うことは難しい。シュルツとロジャー・パーマー(ヴァイス・プレジデント)は、アメリカ生産の新しい主軸となる楽器の展開を考えつつも、コピー楽器の封じ込めとして、自陣に廉価でフェンダーブランドを展開する体制を構築することを検討していく。

 毒をくわらば皿まで。そこまで完璧にコピーできているのなら、日本製の楽器にフェンダーのお墨付きを与えて転用すればいいだろう……。そんな徹底した合理主義のもとで、生産拠点を日本にしたフェンダー・ブランドの計画が持ち上がったのだった。

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