1982年のストラトキャスター③

 前回を受けて、ヴィンストとJVのサウンドの違いから書き始めようと思ったのだが、気になる点を見つけてしまった。ヘッド付け根の「くぼみ」だ。

 JV85のストラトのヘッドの、6弦ポスト下の出っ張り部分(ネックハンガーにに掛けるあたり)を触るとくぼみがある。ちょうど、ヘッドとネックの境界線あたりで「くぼむ」というか、「ネックが太くなる始点」というか、そういうポイントがあるのだ。

 これと同じものを発見したのが、グレコのSE800。1981年製のスーパーリアルシリーズの1本。それはメイプル1ピースネックの57年スタイルのモデルだったが、ヘッドやネックのぼてっとした厚みがそっくりで、やはりくぼみがあった。このくぼみがいつ消滅するのかわからないが、おそらくJV期を中心に、短期間のみ存在した、スーパーリアル=JVの紐帯と言えるものなのだ。

 同じ治具を使い、同じ工程を経て作られたギター。それでいて、サウンドはグレコとフェンダージャパン 、それぞれに個性がうかがえる。だが、くぼみがなくなったときに、グレコのギターはフェンダージャパンとなり、同時にJVがまとっていたアウラも消えていったのではないだろうか。蒙古斑のように、そのくぼみがルーツを示しているように思えてならない。それゆえ「フジゲン期」としてEシリアル以降のギターが、だんだん珍重される風潮にも違和感を覚えてしまう。

 しかし、端的に言ってこのくぼみはブサイクだ。ネックからヘッドにかけての丸くもったりとした感じを象徴している部分でもある。

 フェルナンデスの1982年のRST50のヘッドからネックにかけての流れるような形状は美しい。光に当ててみたときに、ヘッド裏の形状がシャープに浮かび上がる。いかにも職人の仕上げの手仕事が10万円以下の価格のギターにもしっかり息づいていて、うっとりしてしまう。RST80はさらに丸みを帯び、より手作業の妙が見てとれる(いつか所有したい)。

 その点、トーカイは異質だ。例えば過渡期の1981年のストラトキャスターは、ラウンド貼りのローズ指板であってもネックはVシェイプ。80年まではあったスカンクストライプがなくなっても、50年代形式のストラトをローズ指板化した、というスタンスに変化はない。日本のギターらしい「家具調」の整いの中で、コピーを目指さないトーカイのフェンダー系ギターのフォルムを形づくっている。

 パリッとしたサウンドのフェルナンデスRST、すっきりとした鈴なり感のあるトーカイST。同じ、1981年〜82年に作られたコピーモデルではあるが、ネックの形状も各社の音への傾向が伝わってくる。

 こんな重箱の隅を突くような差異ではあるかもしれないが、ストラトのサウンドでネックの影響を無視することはできない。丸くてぼてっとしたネックこそ、芯とガッツがあるJVサウンドの根源となっているのではないか。対照的に薄くスリムなネック(とてもコンテンポラリーな)を持つ、American Vintageの62ストラトのモダンで優しいサウンドと比較すると、この「くぼみ」の意義は無視できない、という気がしているのだ。

 

1982年のストラトキャスター②

 前回の投稿で、JVとVintage Seriesは共有点が多いと書いた。あえて共有点としたのは、実際に同一パーツを使用しているからなのだが(特にJVの上位機種)、実際の姿形は似て非なるものだ。横に並べればその違いは、わかりやすい。

 私が所有している個体での比較になるが、違いを説明していこう。

 Vintage Seriesは62年モデルで、1982年製の木部に、83年製の電気系が乗っかっている。JVは1983年製の62-85だ。ともにラッカー塗装だが、質感は異なる。

 大きな違いは、最上位機種で比べると、115はセンター2ピースが基本なのに対し、Vintage Seriesはボディが3ピースであること。3ピースといえば、フェンダージャパンでいえば、中〜下位モデルの象徴ともいえる構造。だが、レオ・フェンダーが重視していたのは、ネック〜ピックアップ〜ブリッジが同一木材上に並び、弦の振動を効率的にピックアップに拾わせること。そう考えれば、実は、中心の木材をセンターにして左右に貼った3ピースは合理的その思想を体現できるのだ。その点は85も同様だ。私の所有機は塗りつぶしのカラーだが、継ぎ目から3ピースであることがうかがえる(写真では2ピースに見える85もあるので、シースルーカラーではオフセットの2ピースを使っている可能性もある)。 

 センター2ピースのボディは、シースルーのカラーであれば特に左右の木目が比較的揃った材を使っているので、見た目は美しい。実際のサウンドにどの程度影響しているのかは判断できないが、本家がわざわざ3ピースを選択したことには、音質上の利点もあると考えられないだろうか。リアル・ヴィンテージのフェンダーのソリッドギターは1ピースか、オフセンターの2ピースがある。フェンダージャパンでも、後年のエクストラッドやオーダーものでは、オフセンターの2ピースボディの楽器があるので、ぜひ弾き比べて、振動具合を確かめてみたいものだ。

 比較するとラウドに鳴るのは85だ。Vintage Seriesもネックからボディまでしっかり振動して申し分ないが、バランスが良すぎるきらいがあり、ストラトキャスターらしさで言えば85に軍配があがる。

 もうひとつ、わかりやすい見た目の差はヘッドの形状だ。オールドに忠実なのは断然フェンダージャパン。ロゴ側の張り出し具合がしっかり再現され、先端の丸い部分とのサイズバランスがよい(なぜデカールが大きいのだろう?)。Vintage Seriesのヘッドは華奢だ。ロゴ側カーブ部分の幅が狭くなっているので、横に並べると違いがよくわかる。また、ヘッド裏のエッジ処理は、フェンダージャパンが極端に丸みを帯びている。これはグレコからの流れであろう。

 どちらもネックは板目どり(85は追柾目に近い)。ネックセンターで木目が左右対象になるように使われているので、きっちりセレクトされていることがわかる。ヴィンテージ品も基本は板目のメイプルを使用しているので、ここは効率を重視しながらも、最良品を選ぶという姿勢は、両者に受けづがれている。

 ネックシェイプはUSAが圧倒的に薄く、ヘッド同様に華奢な印象を与える。一方でJVはがっちに握り込めるようなCシェイプ。ここもオールドをコピーしていることがうがかえるし、逆にUSAは当時の潮流も踏まえつつ「良い塩梅のコピー加減」で作っている。薄くても、このネックは硬く安定して響きがよく、反りしらずなので恐れ入る。そのせいか、サウンドはとてもブライトでハリがある。

 JVとVintage Series以外にも、「1982年のストラト」に興味を持った私は、他にも2本のストラトを所有している。

 単純に生鳴りだけで言えば、所有する中で善戦しているのが、82年製のフェルナンデスのRST57-50。これも3ピースボデイで、木目の揃え方は、フェンダーを超えており、ぱっと見では継ぎ目がわかないほど。フェルナンデスは自社工場をもたいないため、基本はOEMになる。座繰りを見るとトーカイとは異なるので、カワイ楽器製ではないかとにらんでいる1本だ。ただし鳴りに関しては、オプションのラッカー塗装が施された個体であることも影響しているとも考えられる。

 また、同じく82年製のトーカイST50(ラウンド貼りローズ指板)も所有しており、こちらもまた、鳴り方は定価5万円のギターとは思えないコピーの精度は、81年を境に向上していることは前述の通りだ。ポリエステルの塗装は薄い。特に82年の前期に作られたこの個体は、サドルもプレスで、全体の雰囲気は後年のもの以上にフェンダーライクと言える。だが、全体に大味で音のまとまりは弱い。

 力の入れ具合ということでは、各社ともに「フェンダージャパンの出現」=「コピー楽器から本家への転身」を大いに意識していると見て、間違いないだろう。だからこそ、1982年が、本家・コピーブランドを含むフェンダー系楽器(ベース含む)の特異点として立ち上がってくるのだ。

 両方を弾いてきた身としては、フェンダージャパンのJVが、巷間言われるように「神格化されすぎている」とは思えない。現代では望むべくもない質の木材を使い、きっちり作り込まれたJapan Vintageであることは間違いない。それに対していくら投資をするか、高騰し続けるプライスタグをどう判断するかは、人それぞれとなる。

 続いて、Vintage seriesとJV85という、まさに兄弟機と呼べるスペック(同一PU、3ピースボデイ)のサウンドの差を書いてみたい。

 

 

1982年のストラトキャスター①

 本国フェンダーにとって1981年は、様々な意味で重要な年となった。内部の変革のために、正統的なストラトキャスターの歴史に幕が下されたことは、大きな出来事だろう。ビンテージ市場でも、ストラトキャスターは1981年までを区切りとしている(その点テレキャスターは、年代による程度の差こそあれ、一貫してテレキャスターであった)。

 翌1982年に生まれたフェンダー系列のストラトキャスターには、3つの流れがある。

 ひとつは、フェンダー・ジャパン。

 もうひとつは、ラージヘッド&3点止めをスモールヘッド&4点止めへと仕様変更した、ダン・スミスが監修した通称スミス・ストラトと呼ばれる過渡期モデル。The Stratの流れからアメリカン・スタンダードへと繋がる「現行」ラインの始祖である。

 そして、本家フェンダーのヴィンテージ・リイシューであるAmerican Vintage Seriesがある。

 ここで仔細に見ていきたいのは、フェンダー・ジャパンとAmerican Vintage Seriesである。同じようにヴィンテージリイシューを標榜していて、スペック的にも共通点(共有点、と呼んだ方がよいか)が多い両者。しかし、そこには「JVの思想」の有無と、日本人とアメリカ人との考え方に決定的な差異が見てとれるのだ。

 フェンダー・ジャパンの年式を決めるときに求められたのが、アメリカ側のラインナップに揃えることだったという。つまり、American Vintage Seriesの構想が先にあり、それにならうようにジャパンが企図されたわけだ。おそらく、日本のコピー楽器が「黄金時代の楽器」に似ていれば似ているほど、世界で評価され求められたことに倣い、ギブソンを横目でみながら、本家でもやらざるを得ないと判断したのだろう。

 あるいはフェンダー・ジャパンを作る上で、その「上位」モデルの「本物」のフェンダーUSAが君臨している必要があったのかもしれない。価格的にもAmerican Vintage Seriesは27万円程度であったので、ジャパン最上位の115(11万5千円)と比べても2倍以上の開きがあり、充分な価格差を誇示できた。

 フェンダーにしろギブソンにしろ、「古き良きアメリカ製品(Made in USA)」を最良とする日本人の感性が、アメリカ人に自国の骨董品の再発見を促したと言えるのだが、このストーリーは、のちに起こる現象と相似形をなしている。それがアメカジ・ファッションであり、なかでも「ジーンズ」のレプリカ合戦と同じ様相を呈していることに気づかれるだろう。

 日本人は、憧れの存在であったリーバイスの赤耳ヴィンテージ品を全米で「捨て値」で買い集め、アメリカ人以上に研究し尽くし、そのパーフェクトコピーを作ろうと奮闘した。コットンの風合いや藍の染め方を再現し、古い力織機を買入れて布のうねりまで同様に織り上げ、大量生産品と化したリーバイスが捨て去った「本物のジーンズ」の味わいを再び蘇らせた。

 やはり200ドル程度でヴィンテージのストラトキャスターやテレキャスターを買い集め、採寸し、座繰りまで似せて、できる限り忠実なコピー楽器を作った歴史となんと似ていることだろう。日本人はこうした営為に向いている、というか、「再生」に異常な情熱を捧げる民族性なのだとしか思えない。それは知識欲と達成感を満たす、ある種の快感伴う行為だったのだろう。

 日本人が重箱の隅を突きまくることによって、アメリカ人もその価値に気づいていったわけだが、いまも昔も当のアメリカ人は完璧なリアルさを求めているようには思えない。どちらかといえば、合理的な妥協、とでも言える姿勢が見えてくる。

 その感性の差が如実に出ていたのが、JVとAmerican Vintage Seriesの方向性の違いであった。

 

本家フェンダーの事情②

 テレキャスターであれば1952年、ストラトキャスターであれば1957年、1962年。

 1982年にフェンダー・ジャパンとして復活した年式のラインナップである。1962年からであれば20年。長いといえば長い年月であるが、現代の感覚からすると、当時の音楽を取り巻く変化のスピード感に驚かされる。62年と言えばビートルズがレコードデビューした年で括ってしまってかまわないだろう。だが、82年にデビューしたバンドといえば……あまりに多彩で代表的な名前は思い浮かばない。

 その変化の幅ゆえに、20年前、25年前を豊穣の年として「ヴィンテージ」を振り返る機運が高まったのかもしれない。既に固定化されたテクノロジーの上で推移していった、2000年代の20年分の音楽や楽器産業に比べれば、変化の幅やインパクトはさらに大きく感じられる。

 さて、1981年。フェンダー首脳陣が白羽の矢を立てたのが、富士弦楽器製造であったことは先に触れた。ほかにマツモクなども候補があったようだが(実際にアプローチがあったのかは不明)、実際にはフェンダーが納得できるレベルの楽器で、最速で会社を設立するためには、フジゲンにあたるしかなかったのだろう。

 そう、フェンダー・ジャパンの楽器群はSuper Realシリーズという形で「すでにあった」のだ。しかし、フジゲンは、いったんこの話を蹴っているという。そこで神田商会が間に入って、フェンダー・ジャパン設立の話をまとめたという事情があった。

 もしも神田商会が仲介に動かなかったらどうなったのだろうか。どれだけフジゲンがSuper Realシリーズの出来に自信を持っていようと、コピーであることには変わりはない。先に書いたトーカイと同じことが、それよりも先にフジゲン〜神田商会に起こったであろうことは、容易に想像ができる。

 この仲介があったからこそ、神田商会が筆頭株主としてイニシアチブを握ったのではないだろうか(あるいは、フジゲンには一度話を断ったことを含めて、『下請け』としての矜恃があったのかもしれない)。

 こうした事情がすべて出揃ったのが、1981年だったというわけだ。

 とにかく、フェンダーがフジゲンを高く評価していたことは、その後の流れを見るとよくわかる。件のダン・スミスがフジゲンを訪れ、フェンダーのフューラトン工場への技術的なバックアップを要請している。この事実からも、本家フェンダーのクオリティに問題があったことの裏付けになるはずだ。

 フェンダー・ジャパンの設立が日本で発表されたのが、1982年3月11日。楽器はその5月から供給が始まった。81年のシュルツの社長就任から考えると、繰り返すが、最速での設立だろう。

 製作のフジゲンとは別に、神田商会は急速にフェンダー・ジャパンを会社体制として整えようとしていた。ローランド経由でヘッドハンティングされてチームに加わった人物もいる。そもそも当時の日本に、本物のフェンダーに詳しい楽器のプロフェッショナルも限られていたはずで、業界内での「必要な人物」の目星はついていたのではないだろうか。

 アメリカに駐在して、日米のパイプ役を務める人物も必要とされた。こうして人と物の交流を経て、フェンダー・ジャパンの最初のラインナップが決められた。Super Realは50年代型も60年代型もあったので、そこに年式ごとの細かい調整を施していくことで、フェンダー・ジャパンの楽器として仕立て上げられたのだろう。Super RealシリーズとJVシリーズとの微妙な差異にも説明がつく。

 こうして初年度に、テレキャスターが95、65、ストラトキャスターが115、85、65の価格帯で発売された。世界で初めて、6万5千円で買えるフェンダーの主軸モデルの廉価版が誕生したのだ。

 しかし、この変革はフェンダー・ジャパンだけでなく、本国フェンダーの動きも同時に知ることで全体像が見えてくる。「本歌取り」としてのフェンダー・ジャパンの姿については、次回に考察してみよう。

 

 

 

本家フェンダーの事情①

 フェンダーという会社は、1965年になくなっている。

 創業者レオ・フェンダーの病状の悪化もあり、CBSに会社を売却。同社のいち楽器ブランドとしての歩みが始まる。売却後、コンサルタントとしてフェンダーに関わり続けていたレオは1970年にCBSを離れて、72年にミュージックマンを設立。ストラトキャスターの3点留めネックなどの置き土産(良し悪しは置くとして)はあったが、フェンダー製楽器としての正統進化は、レオが離れた時点で止まっていると言えるだろう。

 その後、フェンダーという圧倒的なブランド力を頼みに、ポピュラーミュージックの変遷とともに様々な音楽を生み出してきたのはご存知の通り。好き嫌いは分かれるが、70年代半ばまでのフェンダー楽器群には、明確なキャラクターがあり、ヴィンテージ市場の一角を占めるだけの評価を得ている。

 それが綻び出したのが、1970年代後半。76年ころからボディをアッシュ材に統一したあたりのことだろう。CBSとしてどういう判断で70年代の楽器を作っていたのかはわからないが、楽器としてのクォリティ低下が起こったことは事実だ。ヴィンテージ市場価格も正直であり、77〜79年のストラトキャスターであれば現在でも20万円台で買うことができる。加えて、ドル高による輸出の低迷、米国内での楽器需要の減少といった要素もあった。

 つまり、コピー楽器の質が高かったとことは原因の一つではあったが、それよりも本家の事情により安価なコピー楽器に「負ける」という事態が起こった、と見た方がよいだろう。レオ・フェンダーがCBSを去ってから10年弱。ゆったりとした変質の中にあったフェンダーは、ウサギと亀よろしく、コピー楽器を出していたグレコほか日本のメーカーの不断の努力の前に、考え方を改めざるをえなかったのだ。

 そうした状況をCBS社内でも静観していたわけではなく、1981年に元ヤマハのビル・シュルツを社長に、ダン・スミスをマーケティングの責任者に招聘して立て直しを図る。

 また、フェンダーよりも先にヴィンテージ回帰の流れを打ち出したのがギブソンだ。もちろん念頭にはトーカイのLSシリーズやグレコのプロジェクト〜スーパーリアル・シリーズの存在があったことだろう。ギブソンもまた時代の流れの中でレスポールを変化させながらも、黄金時代のレガシーを乗り越えることができずにいたわけだ。

 フェンダーとしても、1980年にThe Stratを発表するなど、レガシーを省みるギターを発表しているが不発に終わっている(1983年まで作られてはいたが)。一度起こってしまったダウントレンドに抗うことは難しい。シュルツとロジャー・パーマー(ヴァイス・プレジデント)は、アメリカ生産の新しい主軸となる楽器の展開を考えつつも、コピー楽器の封じ込めとして、自陣に廉価でフェンダーブランドを展開する体制を構築することを検討していく。

 毒をくわらば皿まで。そこまで完璧にコピーできているのなら、日本製の楽器にフェンダーのお墨付きを与えて転用すればいいだろう……。そんな徹底した合理主義のもとで、生産拠点を日本にしたフェンダー・ブランドの計画が持ち上がったのだった。

フェンダー・ジャパン前史④

 1980年のSuper Realシリーズこそ、コピーからクローンへの転換点と言えるだろう。数年間の研鑽のたまものである。

 明確に年代を設定して、細部までコピーしていく。1980年のカタログではSE・TE800以上がSuper Real、それ以下が前年を引き継ぎSuper Power、Spacey Soundとなっている(TEはSpacey Soundのみ)。

 特に、翌1981年のカタログではこれまで以上に「いかにヴィンテージモデルを検証し、それを当時の技術で蘇らせたのか」の説明にページが割かれているが特徴だ。「リアルの超越」という製品名は、「ジャパン・ヴィンテージ」と銘打った、その思想と同一だろう。フジゲンビルダーの意地、誇りを感じる。

 この80年と81年の差は、中でもストラトキャスターのコピーモデル市場において決定的に大きい。その意味は80年製のトーカイSTとSuper Realを比べるとよくわかるはずだ。

 コピー楽器群のなかで、ずば抜けた存在感を放っていたのがグレコとトーカイであることは間違いない。トーカイは、レスポールにおいては驚異的な執念を見せ、レギュラー製品ではLS120を頂点としたバーストクローンの生産を行っていた。フォークロックトリオ「ガロ」のメンバーTommyのバーストを採寸して、1978年からその完璧なコピーとしてLSシリーズを作っていったことで知られる。

 トーカイはSTシリーズ(Springy Sound)やTEシリーズ(Breezy Sound)でもヴィンテージの再現を行なっていた。だが、コピーとしての完成度は、1980年までは、もう一歩足りない部分があった(60年代モデルのネックにスカンクストライプがある、など)。LSで見せた情熱とは温度差がある。

 それが、1981年のモデルでは足りない一歩を補い、リアルなヴィンテージコピーを出してきた。サウンドにおいても、リッチな中域が特徴的なヴィンテージトーン。グレコSuper Realの完成度に奮起された部分があることは想像に難くない。これはまた別の物語があるわけだが、82年のフェンダー・ジャパンの誕生と、先にも触れた敗訴によるトーカイの苦境により失われたものもまた、小さくなかったはずだ。

 私は1982年のトーカイST50(スパロゴ)を使っているが、存外悪くない、というより気に入っている。ネックの感触もよく、なにより3.4kgという軽い個体であることからも、手放さないでいる。

 またまた余談めくが、そもそも、日本人の(職人的な)物作りにおいて「形(かた)」を極めることは、ひとつの理想と言えるものだ。カタチを変化させてまで道具としての効率性を追い求める、という姿勢がそこにはあまり見られない(私はよく日本刀を例に話すのだが)。美と機能性がバランスした「形」を見出すと、その一つの形態を突き詰めようと努力する。その感性に、ヴィンテージコピーの極北を目指す、という目標がフィットしたのだろう。

 そして、Super Realの完成度に刺激をうけたのがトーカイだけでなく、本家のフェンダーであったというわけだ。その1980年はフェンダー(CBSミュージカルインストゥルメンツ)においても、大きな分水嶺であった。

 のちに振り返ると、歴史には様々な結節点(ハブ)や特異点(飛躍)が出現することがある。エレキギター/ベースの歴史においては、間違いなくこの1980年はその「点」であり、後世に影響を及ぼすことになった。

 

フェンダー・ジャパン前史③

 神田商会が主導したフェンダー・ジャパン。アメリカのフェンダーはなぜ日本をもひとつのフェンダーの創業の地に選んだのか。なぜ1981年だったのか。

 よく知られた話として、日本製コピー楽器が市場に侵食してきて、フェンダーやギブソンの楽器が売れなくなった、という背景がある。実際に両社とも訴訟を起こしているし、後年の東海楽器製造株式会社(トーカイ)のように、フェンダーに敗訴して楽器の販売停止の憂き目に遭い、1984年に会社更生法を適用する事態にまで陥っている(その後もフェンダーコピーを製造してはいるのだが)。

 そこまでいかなくても、神田商会にはフェンダーから自社がもつパテントの侵害についてのクレームがたびたび来ていたようだ。テレキャスターもストラトキャスターも、開発当時は革新的な構造をもつギターだった。その分、レオ・フェンダーはそうした機構にしっかりパテントを取り、権利を保護している。テレキャスターのブリッジプレートからも、ストラトキャスターのヘッドストックのデカールからも見て取れる。グレコに関わらず、各社がどこをどう変更して、そのクレームから逃れていたのか。きっと愉快な話がきけるだろう。

 1970年代の「日本のコピー楽器の出来が良すぎた」という美談も、本当のことなのだろうが、そればかりではない気がしている。たびたび書いているように、子細に見れば(いや、ものによってはパッと見でも)1977、8年までのコピーモデルはどこか変だ。似ているけど、すべてが違うというのか。クレーム逃れの意味もあったのだろうか……。

 そして、先に書いた様にコピーの主流(特にフェンダー系)は、現行製品だった。ストラトキャスターであれば、ラージヘッドにバレットナット、3点どめという70年代スタイルのコピーを各社一様に出していた。トーカイのSilver Star、フェルナンデス/バーニーのBurny Custom、ヤマハのSuper R’nroller、グヤトーンのLS、グレコのSE。現行品のコピーに加えてスモールヘッドのストラトキャスタータイプを作っているブランドもあったが、そうした70年代中期の楽器は、ヴィンテージのクローンと言えるフェンダー・ジャパンのJVとは当然雲泥の差がある。

 ストラトキャスターで言えば、先に書いた「サーフボードギター」としての軽やかさを出せていたメーカーは皆無だ。塗装や材質もみな家具のような重厚さであり、フェンダーの楽器の持つアメリカ的な「ポップさ」や「キッチュさ」は残念ながらそうした楽器の中には見当たらない。

 そのなかで、グレコは1976年のプロジェクトシリーズを皮切りに、フェンダー系ヴィンテージ・コピーのステージを押し上げる。

 そして、市場での試行錯誤を重ねた末の1980年。分水嶺となる年だ。Super Realシリーズが登場する。

 

 

フェンダー・ジャパン前史②

 フェンダー・ジャパン株式会社は、フェンダー(米国CBSミュージック・インストゥルメンツ)と、神田商会、山野楽器(フェンダーUSAの輸入元)が出資して1982年5月に設立された会社だった。住所は神田商会と同じなので、イニシアチブがどこにあったのかが自ずとわかる。出資比率上も、神田商会が55%、CBSが35%、山野が10%であった。

 とはいえ、フェンダーが声をかけたのは富士弦楽器製造(フジゲン)だった。そして、フェンダー・ジャパンの初代社長にはフジゲンの小嶋取締役が就任している。

 余談だが、私は勝手な想像で、まずは販売元である神田商会にフェンダーは話を持ちかけたと思っていた。だが、実際はフジゲンに直接アプローチしていたわけで、確かに中抜きされない分、合理的な判断ではある。

 さて、フェンダーがフェンダー・ジャパン設立の打診を行なったのは、設立の前年の1981年。実際の準備期間がいかほどであったかはわからないが、1年に満たないはずで、おそらく準備は急ピッチで進められたのだろう。その中で、スタッフの選定含めて、様々な準備が必要だったと思われる。

 フジゲンは当時から神田商会と組んでグレコの製造していた。紆余曲折あったようだが、結果的にこの神田商会=グレコの組み合わせだったからこそ、恐ろしく短期間のうちに会社設立〜JVシリアルが付される楽器の準備ができたのだ。

 なにせ、フェンダー・ジャパンの商品は「もともとあった」のだから。

 「もともとあった」話の前に、また少し時計の針を戻して、1970年代の状況を見てみよう。神田商会がグレコとして、のちにジャパン・ヴィンテージと称される様になる「コピー楽器」の販売を開始したのは、カタログ上は1970年ころになる。

 1970年前後に輸入されていたフェンダーやギブソンは、当時の価格で30万円前後。当然、日本製もメキシコ製も韓国製もない時代だから、本家のそのものを買うしかない。

 実際、プロミュージシャンたちは、輸入されていたフェンダーもギブソンも使っていたわけで、日本にいて買えないわけではない。それでもやはり、1970年の大卒初任給の平均が5万円を切る時代のこと。多くの若者が銀座4丁目の山野楽器や渋谷道玄坂のヤマハに行っては、プライスタグを見てため息をついていたはずだ。

 それなら、ポップミュージックのいちばんの消費者である若者が買える値段でそっくりな楽器を作れば商売になるじゃないか、と考えるのは道理である。デザイン上のコピーライトの感覚や権利ビジネスに対する問題意識も低かった(おおらかだった)のだろう。4、5万円でストラトキャスターっぽい、テレキャスターっぽい楽器が買えるのであれば、若者たちにとって、そんな嬉しいことはない。

 そうやって、ジャパン・ヴィンテージより前に、のちに「ビザール」として珍重されていく日本独自デザインのギター/ベースは姿を消し、より「本物らしい」楽器が作られていくようになったのだ。

 コピーモデルの登場からわずか10年。「なんとなく似ている」楽器は、「完全に似ている楽器」として本家からお墨付きをもらい、日本でライセンス生産されるフェンダー楽器として、その地位を確立していく。後世から見てみれば、そのトップスピードが1982年に照準を合わせられていたのだった。

 1982年からすでに、40年弱。当時のフェンダー・ジャパン経営陣のほとんどが、すでに不帰の人となっている。だが、もう少しだけ資料を頼りに、フェンダー・ジャパン設立までの道をたどってみたい。

 

 

 

フェンダー・ジャパン前史①

 まずは1982年以前の日本および米英の音楽と楽器とを取り巻く状況を俯瞰しつつ、フェンダー・ジャパン前史を追っていこうと思う。のっけから道草のような流れだが、重要なポイントが含まれているので、かいつまんで説明しておきたい。

 本家フェンダーの楽器群が全世界で注目されるきっかけは、もちろんロックカルチャーの台頭だった。もはや音楽史の定説だが、ロック(日本風に言うとニューロック)のおかげで、フェンダーもギブソンも、新しい命が楽器に吹き込まれることになる。

 サーフボードギターと揶揄されたストラトキャスターは、一転、時代のサウンドを生み出す根源になった(サーフボードギターという蔑称は、嫌いではない。コンターのカーブの滑らかさにフェテイッュを覚えるたちだからもしれないが、ストラトのある種の軽やかさを言い当てている)。

 不人気から生産が打ち切られていたギブソンのレスポールが68年に復活したのもロック・ギターとして不動の地位を確立したからだ。つまり、楽器の生き死にというのは、音楽による影響力が大きいということだろう。

 そういう意味で言うと、日本の楽器業界がフェンダーやギブソンのコピー製品を作り、「コピー楽器戦争」と呼ばれるほどの活況を呈していた70年代半ばからの音楽はどうだったろう。

 1975年からのビルボード年間トップ40を見ていくと、ソウルやダンスミュージックに根差した、華やかでスムースな音楽が次第に好まれていく傾向が見てとれる(ロックはサブカルチャーなので、最大公約数的な性格が強いトップ40に、60年代だからといってジミ・ヘンドリックスやクリームが入るわけではないのだが、その分、大きな流れをつかむことができる)。

 70年代半ば、真空管の時代の終わりともあいまって、録音現場に昔ながらのノイズが入り込まなくなっている時期とも重なる。トランジスター増幅のミキシングコンソールによって録音されるクリアーで歪み感の少ないサウンドが生み出されると、しだいに楽器にもその性格が要求されるのは自然な流れだ。

 フェンダーもその例にもれない。70年代のストラトキャスターやテレキャスターは、音の印象で言えば硬質でエッジィ。ファンキーなカッティングや輪郭がはっきりしたバッキングに向いているイメージだ。50年代、60年代のようなリッチな中低域よりも、低域から高域まではっきりした、硬いアッシュ材のドンシャリ感のあるサウンド。つまり、その時代にあった音を、ストラトキャスターであれテレキャスターであれ、供給するようにしていたわけだ。

 そして、重要なポイントというのは、日本ブランドのコピー楽器群もこの時点では、「同時代の新製品」のコピーを作っていたということだ。コピー楽器だけではなく、オリジナル楽器は、もっと色濃く同時代に寄り添っていた。この時点では「最新のものが最良」という考えが優勢であり、ヴィンテージという価値観は形作られていない。そして、当時の現行品に対しての良し悪しの判断は、ひとまず保留されていたはずだ。ストラトキャスターであれば重いアッシュボディに起因するあの音こそ新品の「フェンダーの音」だったのだから。

 70年代グレコのSEやEGシリーズなどは「ヴィンテージだから」というよりは、「海外ミュージシャンが使っていたギターに似せるように」作っていたはずだ。その範疇で「なんとなく似ている」から「かなり似ている」への精度の進化はあっただろう。しかし、姿形だけでなく「座繰りまでまったく同じ」にするまで突き詰めるような、ある意味で、「JVの思想」とでも呼ぶべき物作りはされていない。

 ここで疑問が湧く。「かなり似ている」から「まったく同じ」へと、わずか数年で飛躍することになるその萌芽はいつ、何がきっかけで芽生えたのだろうか。

 そこは、のちにフェンダー・ジャパン株式会社を形成する主要メーカー、神田商会=グレコの進化の中に答えが見つけられるかもしれない。

 

 

フェンダー・ジャパンをめぐる旅へ

 1982、JV。

 ギター/ベースフリークであれば、この数字とアルファベットの意味するところは、すぐにおわかりになるだろう。--1982年製フェンダー・ジャパンの楽器に付されたJVシリアル。

 JV、すなわちジャパン・ヴィンテージ。

 フェンダー・ジャパンは、1982年に生まれたときから、すでにヴィンテージを標榜しており、本家フェンダーUSA黄金時代のギターとベースを復活させることにその意図があった。
 最初の製品群として、JVシリアルが与えられた楽器の音色、木材の質とその加工精度、ヴィンテージクローンとしてのトータルな佇まいは、すでに完成の域にあった。……というよりも、JVは誕生のその瞬間が頂点であり、とくに「115」は他の追随を許さない圧倒的なアウラをまとっていた。
 それを持ってして、フェンダー・ジャパンは世界に名を馳せた。

 2020年現在において「本当の」ヴィンテージ楽器となったJVの実力は、全世界の中古楽器相場でのプライスタグを見ても一目瞭然だろう。豊穣とされる80年代日本製ギター、ベースのなかにおいても、突出した存在であることは疑いようがないはずだ。

 フェンダー・ジャパンは設立当初から本家をもある部分で内包しながら、30余年にわたって世界中の初学者からプロフェッショナルまで、あまたミュージシャンとともに歩んできた。

 だが2015年、われわれの知るフェンダージャパンは消滅した(しかし、そういう意味ではすでに1997年に一度なくなっているのだが)。これから見ていく様に、特殊な事情のなかで誕生したはずのフェンダー・ジャパンは、なぜ世界を席巻することになったのか。

 本稿では、資料をもとにして歴史を縦横に編み込みつつ、元フェンダージャパン関係者の証言を取り入れ、さらに私見も交えながら論をドライヴさせるつもりだ。資料と証言の齟齬は、30年の時間経過を考えれば当然起こりうる。資料が間違っていることもあるだろうし、証言者の記憶があいまいなこともあるだろう。なるべく丹念に糸をほぐしながら、かつ横道にも逸れながら、フェンダージャパンとJVの物語を書き進めていきたい。

 1982年から1984年の間に作られたJVシリアルを持つギターとベース。とりわけ1982年製の「伝説」は正当な評価なのか、あるいは過大評価なのか……。フェンダー・ジャパンとJV誕生のインサイドストーリーをめぐる旅を始めよう。